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なろう系がRPGシステムを採用する理由

最近「小説家になろう」出身のアニメが増えている。いや最近というほどではない。数年前からずっとそうだった。むしろ今は減ってたりするかも?最近アニメを見ないからわかんないけど。

だがしかし、いわゆるなろう系と言われる作品が、どんどんアニメ化していたり、グッズが売れていたり、明らかに市民権を手に入れているのは確かだ。

とはいえ、基本的になろう系は作品としては低くみられることが多い。主人公が強すぎる俺TUEEEEとか、すぐに惚れてしまうヒロインもといチョロインとかハーレムとか、、世界観を破壊しかねないチート能力やら、努力シーンが無いやら、まぁ散々である。そしてその指摘は正しい。

でも待ってほしい。その「なろう系」と言われるご都合主義的な物語は、間違っているのか。私はそこを冷静になって考え直してみたい。

 

なろう主人公がモテたり農業が成功するのは、結局は強いからである。

なろう系の中でも、異世界へ行ってチートするタイプのスタンダードな系列の物語は、美少女ハーレムを作ったり、王様に認められたり色んなパターンがあるが、基本的にはバトルものを下地にしている。

ヒロインがたくさん出て美少女動物園状態になったり、そのよくわからない世界で認められて金持ちになったりするが、それらの要素はあくまで二次的な産物である。なろう主人公の目的はあくまで戦いである。戦い、そう結局はバトルである。ベースにあるのはバトルである。

いやいや、バトルは目的じゃない。異世界で農家をやったり、商売で成功したりと、いろんなジャンルがあるではないか? という意見がある。確かにそういった内政系の主人公は、バトルは目的ではないように見える。だが、なぜ主人公がそれほどその世界のライバルキャラクターたちより優位に立てているのか?そう、結局は強いからである。強いから誰も文句を言ってこないし、強いからモテるし、強いから敵対してくる相手を返り討ちに出来る。結局は強さに比例している。

そして彼らの世界観で、強さというのはどうやって決まるか?それはバトルである。一対一だったり、仲間と一緒のパーティーを組んだり、ルールは様々だがバトルに勝利することで主人公の強さをわからせるものが基本である。非戦闘系のなろう主人公も、戦闘向きでは無いと自称しながら、実際戦うシーンでは強い強い。全然弱くない普通に強い。内政向けのチートを戦いに応用したら大活躍したなんてよくある、ありすぎて困るほどのパターンだ。

このバトルで決まるという点で、私がなろう系はバトルものの派生だと考えている理由である。

 

バトルものとは、ドラクエ的世界観である。

よくナーロッパ(なろう+ヨーロッパの造語)と言われる世界観がある。それは魔王がいて、冒険者ギルドがあって、モンスターがいて、ステータスがあったりする。わかりやすく言えばドラクエ的なゲーム世界観である。なろう系はゲーム世界観だからオリジナリティが無い、つまらない、といった意見は多い。なぜなろうでドラクエ風な世界観が好かれるのか、それは「ゼロの使い魔」の影響があるからとか、作者の年齢的に若いころにRPGが流行っていたからだとか、それも確かに一理あると思う。だが私は、それよりもいわゆるバトルものと言われる漫画と、RPGの類似性が大きいので、テンプレとして上手く嵌ったのではないかと考えている。

ドラゴンボールや、ワンピースもゲーム的な世界観である。

バトル漫画としても有名な、この二つのジャンプ作品から、私はゲームの世界観がなぜそれほどなろうで流行したのか説明してみたいと思う。(鬼滅の刃は個別に分析したいから今回は扱わない)

まずドラゴンボールである。バトル漫画の王道であり、知らない人はいないという作品である。ドラゴンボールの展開がいかにドラクエ風なのか、これから解説していく。

ドラゴンボールのあらすじというのは、まず主人公の悟空がいる。その悟空が修業し、ライバルと戦う。するともっと強い敵が現れ、また修業し、強くなって戦う。

敵が出る→勝てないから修行する→強くなる→倒す→新たな敵が出る

これを繰り返すのがドラゴンボールの基本である。いや全てのバトル漫画はそうだと言えるかもしれない。しかし、ドラゴンボールには、強くなる修行パートの時に、ある共通のイベントがある。

新たな師匠キャラが登場する。

そう、ドラゴンボールではより強くなりたいときに、今までとは違った新しい師匠ポジションのキャラクターが登場するのである。悪く言えば強くなるには今までの師匠の所にいても無意味で、次の師を探さないといけないという所である。

亀仙人→カリン様→神様→界王様

といった風に、強くなるにはただ修業をすればいいわけではなく、適切な人物を見つけ出さねばならない。この、師匠が変わるというシステムはドラゴンボールの見事な所である。

そもそも、勝てない相手を倒すのに修行をすれば勝てる、というのは不自然である。なぜならばこれまでにもすでにきつい修業を乗り越えたはずだからだ。しかし、今の師匠とは別の上の師匠の所に行くことにより、今までの修行では未熟だったから修正したらもっと強くなった、という風にできる。つまりドラゴンボールの世界で強くなるというのは、世界に散らばっている師匠を見つけ出すという事である。

世界の中で誰かを見つけて強くなる、というシステムはRPGのお使いクエストに近い。

ゲームでは先へ進むために、また敵を倒すために、ある一定のアイテムが必要だったり、スキルを教わったりする必要がある。魔王は伝説の剣でしか倒せないというのは典型的でよくあるパターンである。さらに伝説の剣を手にするには賢者を探さないとダメとか、またお使いクエストが発生する。

ゲームでシナリオを進めるために必須なアイテムなどが、それがドラゴンボールでは師匠に相当する。ドラゴンボールには超神水や、最長老、老界王神など、修行無しでも強くなるものもある。一見強くなるのは修業の成果のように見えて、そういったお使いクエストをこなすことで強くなっている。こういった部分がゲーム的だと思う。

 

ワンピースは仲間集めがメイン

ドラゴンボールがお使いクエスト的であることは説明した。次はワンピースについて考えてみようと思う。

まずワンピースの世界観を考えてみよう。主人公ルフィは、自分の故郷である海から、グランドラインを越えて、さらにその先の新世界へ行き、ワンピース(ラフテル)を見つけるのが目的である。

こう書くと、ワンピースの世界観はとてもゲームチックであるとわかる。どんどん新しい大陸に行って冒険をするのは、RPGでは普通である。

さらにワンピースは、海を旅するのだから、船を手に入れないとならない。そして船を手にしたとしても操縦士が必要。長い冒険になるため食事をとる必要もある。船の修理や病気も怖い。そう考えればどんなに最低でも、操縦士、コック、医者、船大工を仲間に入れる必要がある。しかも目的のワンピースにたどり着くには、古代文字を解く必要があるようで、さらに考古学者も必須になる。

つまりワンピースの世界を「攻略」するためには、それぞれ専門の仲間を集める必要がある。この攻略に必要な仲間を探していくというストーリーは、とてもゲーム的であると言える。基本的にRPGは4~6人からなるパーティーが基本になる。強い仲間を見つけていくのもゲームの楽しみの一つであり、中にはいなければ先に進めないような、重要なキャラクターもいる。この先に進むにはある人物を仲間にしなければいけない。といったイベントは多い。ワンピースもこれとよく似ているのである。

 

バトル漫画とRPGゲームの相性の良さ

ドラゴンボールやワンピースのゲーム的な部分について説明した。このようにRPGのシステムと言うのは、バトル漫画の展開とよく似ており、一致する点も多い。

そして基本要素がバトル漫画で構成されるなろう小説は、ドラクエ的な設定にすれば世界観を作るのを省略できるだけではなく、物語の進行も非常にわかりやすく直感的に行くことが出来るのである。なろうマンガでRPGドラクエのような世界観になるのは、ある種の合理性が働いているのである。

むしろ逆に、ドラゴンボールやワンピース等がゲーム的やご都合的な世界観に見えないのは、そう見えないように上手くシナリオを作っているからである。ゲームっぽさをうまく誤魔化せるかどうかがなろう系とバトル漫画の違いなのかもしれない。