何をやってもうまくいかない無職のブログ

人生終わったニートの暇つぶしそれ以上でも以下でもない

全ての物語は、主人公にとって都合のいい世界である。

この世にはいろいろな物語がある。漫画、アニメオリジナル、ラノベ、そしてなろう作品と。

そして大体なろう作品とは馬鹿にされる。理由はいろいろある。オリジナリティの無さ、テンプレ展開、ご都合主義、もっとあるが大体そんな感じの理由だ。

だが自分は、その中の「ご都合主義」という部分に注目したい。なろうは確かにご都合主義だが、では逆になろうではない評価の高い作品は、ご都合主義ではないのか?

確かになろうではない”一般の作品”というのは主人公が努力したり、負けそうになったり、辛い時期があったりと色々と苦労人ではある。

だがしかし、「苦労しているからご都合主義ではない」とは言い切っていいのだろうか?もっと大きな、メタ的な視点から見ると、その苦労もまた、大きな「ご都合主義」の流れの一部と呼ぶことが出来るのではないかと私は思う。

 

「神は乗り越えられない苦難を与えない」という言葉がある。俺は大ウソだと思う。

よく、神は乗り越えられない苦難を与えないという言葉を聞く。それを聞き、元気を出している人達もいる。だが人生終わってるニートの俺の経験から見れば、絶対ウソだと思う(あくまで個人的意見です)。明らかに自分の能力じゃあ対処不可能な問題が積み重なり、それに加えて病気まである。神は明らかに嘘つきだ。こんなのは成功したやつだけの戯言だ!と。

まぁ自分の事は置いておくとして、物語と言うのは主人公に困難が降りかかることが多い。そしてどうなるか?もちろん乗り越える。主人公は相当苦労したりボロボロになったり寿命が縮まったりするけど、きちんと乗り越える。それが当たり前だ。バッドエンド系やギャグ系などの特殊な例を除けば、主人公は最終的には成功するのが確定している。そしてそれを読者も望んでいる。そこにリアルはいらない。たまに逆張り系作品が敢えて失敗させたりするが、ほぼ炎上する。つまり主人公が成功しないという事は極一部の変態を除けば、誰も望んではいないという事だ。

 

主人公が試練や苦難や不幸を乗り越えていく、その過程にはいろいろなイベントがある。中には感動的なモノも。そう、感動的に主人公が試練を乗り越えれば、それで名作が生まれる。人気が出る。

ではなろう系作品はどうか?主人公が大した苦労もせずに苦戦もせずに大活躍して話が終わる。うわぁなんてクソ展開なんだ、と馬鹿にされたりもする。とはいえ、私が言いたいことは、感動作品も、なろう作品も、結局は主人公が対処できる問題しか無いという事だ。普通の作品となろう系の違いは、単なる難易度の違いと言えば分かりやすいだろうか?

普通の熱血系だったりする作品で出てくる試練と言うのは、ゲームで例えれば超ハードモードみたいなもので、トゲだらけの敵がぎっしりいて安全地帯が極端に少ないステージの様なものだ。逆になろう系で出てくる試練は、主人公が無敵アイテムゲットありで落下死もない平坦な道で敵もクソザコしかいない、そんなベリーイージーのステージを歩むようなものである。

普通の作品で感動するのは、超困難クリア者0.001%以下のステージをクリアしたように見えて、見ている人も感動する。なろう系は誰でも余裕でクリアできるようなチュートリアル以下のしょぼいステージをクリアしただけだから、ご都合主義だと叩かれたりする訳だ。

 

だがこれらの差は難易度の違いだけで、物語としては主人公にとってクリアできる難関を用意したことには変わりない。

結果だけを言えば、超難易度ステージだろうが、ゆとり用ボーナスステージだろうが、主人公がきちんとクリアしたという事は変わりない。ではなぜ、これほど評価が分かれるのか。それは先ほどゲームで例えたからわかりやすいハズだ。

普通の主人公はキツイステージを一生懸命プレイして頑張ってクリアしたのに、なろう主人公は無敵とかアイテム持って超簡単なステージをクリアしただけだからだ。これは読者側から見た思いである。つまり主人公が苦労してるように見えない場合、より「ご都合主義」感が増してしまうのだ。普通の主人公も、最終的にはクリアするんだから結局は同じご都合主義のはずなのだが、すごく苦労してた描写や内容があるので、そう見えないだけなのだ。つまり、本質的に言えば「ご都合主義」であることが批判されているわけではない。誰にでもクリアできそうなクソ楽ステージを設置している事が非難されているのだ。

 

主人公の挫折、負けイベント、特訓などは、ゲームバランス調整の様なものだ。バランスが下手だとご都合主義と言われる。

そもそも、なろうに限らず、全ての主人公はご都合主義で、降りかかる危機も結局は主人公にとって都合のいい舞台設定であるというのが私の意見だ。

ではご都合主義と言われないためにはどうすればいいか?ゲームで例えれば、適切な難易度のステージを設計する、レベルバランスの問題になる。では漫画で言えば、主人公にとって、すごく努力して全ての知識と力を駆使して頑張ればなんとかギリギリ突破できた。逆に、ただひたすら主人公を理不尽に痛めつければいいというものでもない。どう考えても無理な困難を突破しても、逆に嘘っぽくなるからだ。そういった適度で絶妙なシナリオ上の障害を作れるかにかかっている。難易度は無理ゲーに近い。だが気合いを入れれば何とかクリアできるかも?そのように読者に受け取らせることが出来れば、それはご都合主義ではなく、努力が実を結んだ成果として評価される。もうなろうとかご都合主義なんて言わせない!

 

適切な苦難と言うものは何だろうか

ではどうすればそんな絶妙なシナリオ展開が描けるのか?それは正直私にもわからない。物語にはそれぞれ世界観があり、設定がある。世界観によっては同じ内容でも難易度が大きく変わってくる。例えば現代社会がベースの物語でスマホを手にするのは非常に簡単だが、中世とかいわゆるドラクエ風世界観でスマホをゲットして来いなんて言われたらチートでもないと無理ゲーである。これは極端な例だが、物語によって主人公の能力も違ってくる。得意なことも苦手なことも様々だ。だから適切な難易度と言うのは、それぞれのキャラや世界観によって大きく変わる。作者は、そういった自分の物語の中で、ご都合主義と呼ばれないような適切な難易度の苦難を主人公に考えなければいけない。

やはり普通に面白い作品を作るというのは、非常に難しいものだと思う。ここまで話しておいてなんだが、バランスのいいシナリオなんて、結局は各自で考えるしかない、申し訳ないが。

 

ワンピースの真似をしてはならない

one-piece.com

 

今回日本でも有名な大人気ジャンプ漫画である、ワンピースについて話してみたいと思う。

現在その人気は「鬼滅の刃」に押され気味だが、それでもジャンプ、いや日本を代表とする漫画であることには変わりない。

今現在ワンピースではワノ国編となっており、今までの伏線が回収されており、さらに四皇という世界のトップの一人であるカイドウとの戦いが始まり、ワンピースファンとしてはクライマックスを迎えた盛り上がりどころである。

まぁワンピースの現時点での内容については、別に自分が語らなくても腐るほどファンたちが考察したりしていると思うので、ならば私はワンピースというマンガの作品としての仕組みや構成について分析してみることにした。そうして一つの答えが出た。

それは、もしこれから漫画を描きたい人がいたりするのなら、ワンピースのような作品は目指さない方がいいと言う事だ。それは何故か。その理由をこれから説明したい。

 

ワンピースは他の漫画と比べても登場人物が非常に多い。いや多すぎる。

ワンピースと言う作品を読んだとき、他の同じバトル系の漫画と比べた場合、特徴的なのはそのキャラクターの数の多さである。そう、とにかくキャラクターが多い。しかもワンピースは大した活躍をしないモブキャラですら、細かい設定があったりする。そしてそれがワンピースの魅力の一つでもある。さらにそれぞれのキャラクターに伏線とかがあったりもして、それがまた考察しがいがあったりする。

だが考えて欲しい。漫画において登場人物が多いというのは、本当に喜ばしい事なのだろうか?

 

キャラクターが多ければ多いほど、一人一人に描ける内容が少なくなる。

キャラクターが多いというのは、実はこの大きな欠点があるのだ。キャラをいくら増やしたところで、結局は漫画と言うのは1ページのコマの最大数が決まっており、さらに一話当たりのぺージ数も上限がある。大体一週間で20~30ページくらいだと思う。そして、そのページ数の中で、登場人物たちは活躍したり何かしらのアクションを起こさなければならない。キャラ数が多ければ多いほど、一人のキャラに当てるページ数、コマ数は限られてしまう。だから、キャラが多いというのは一見してスゴイように、いや実際凄いのだが、もし何も考えずに増やしてしまうと、単純にキャラクターの中身が薄まってしまうという問題がある。ワンピースの大きな世界観と組織とキャラ数を安易に真似ようとすれば、痛い目にあうだろう。

ではなぜワンピースはキャラクターを増やしても問題は無いのか?

このようにキャラクターを増やせば一人当たりの行動がページ数と言う現実的な問題として、制限されてしまうデメリットがあることを説明した。しかし、ワンピースはそれでもうまく出来ており、人気作品としてのクオリティを上げている。それは何故だろうか?

理由は簡単!尾田栄一郎先生の才能が凄いから、ふむ、たしかにその一言で片づけるのは簡単だが、私はきちんとワンピースがなぜ成功できているのかをきちんと分析してみようと思う。

キャラが多くても大丈夫な理由

まずその理由を見つけなければならない。普通の作品で、ひたすらキャラクターを増やしていくとどうなるか?答えは簡単、どうでもいいキャラクターだらけになり、作品の内容が薄くなってしまう。そしてつまらなくなって打ち切られる。それが普通だ。

しかしワンピースはその事態を回避している。それどころかキャラクターを増やし続けているのにも関わらず、人気を維持している。謎だ。特にワンピースは基本的にキャラの死が少ないタイプの漫画なので、減ることはめったにない。それでもうまくいっている。やはり謎だ。

なぜワンピースのキャラクターは増えても増えても高いクオリティを保っていられるのか。

それを考えたとき、実はこの作品は、一見するとバトル漫画だが、実はバトル漫画のルールから外れているような部分があることに気づいた。そこをこれから述べていきたいと思う。

 

ワンピースはバトルものというよりはむしろギャグマンガの構成に近い

私が気付いたところはこれである。ギャグマンガ的な構成とはどういうものか、今から説明する。

それは主人公が新たなゲストキャラと絡んで、そのゲストキャラとの絡みで笑えたり変な出来事が起きて、最後は上手くいったりオチが付いたりして話が終わる。

そう、一つの話にオチが付くというのがギャグマンガの基本だ。何かがあって、主人公が振り回されたりして(もしくは主人公が暴走して)最終的にオチが付いて終わる。このように小さくまとまっている出来事を、キャラクターを変えたりして起こすのがギャグマンガである。

ではワンピースを見てみよう。ワンピースには確かに、多くのキャラクターが出てくる。だが、ルフィたちの周辺に出てくるキャラクターたちはみな、彼らそれぞれの島や国で問題が起きて困っている。そこでルフィたちが住民と仲良くなって、一緒に悪者を倒して終わる。そしてルフィは新しい冒険へといく。

ギャグマンガと言うよりは、水戸黄門とかそういったものに近いかも。まぁともかく、ワンピースでは一度出会ったキャラクターたちは、次の島に行くとき、当然だがさよならする。そして島であった人物は、自分のキャラとしての魅力を島の中で出し切っていく。それからは当分出てこない。これでキャラのリセットを行っているのである。

 だからいくら新規で個性的な登場人物が現れようが、島を出ればもう当分登場することはないので、読者はルフィ周辺だけに注視してればいい。こうやってキャラを自然とフェードアウトさせることで、キャラが多すぎて困るという問題をなんとか解決している。

だがらもし、あなたがキャラがたくさん出る漫画を描きたいときは、ワンピース並みにただ出すだけでは破綻すること間違いなしなので、何かうまい理由を付けて主人公と別行動やらをさせた方がいいと思う。これが私が、キャラクターを増やしすぎるのは危険だという意見だ。

 

大量の複線回収、これもまた、ワンピース以外はするべきではない。

 ワンピースには伏線と言うのがあり、それが長い期間後に発覚し、盛り上がっていく。ワンピの魅力と言えば張り巡らされた伏線と言う人も多いだろう。だが、ここにも大きな落とし穴がある。

伏線は張った時点では何でもない、取るに足らないモノなのである

伏線は回収されたときは面白い。しかし回収されない伏線と言うのはどうでもいいことである。むしろページの邪魔でもある。そして伏線と言うのは、一度張っておくと、回収されるのは10巻以上後だったりする。正直に言おう、ワンピースのような何年後も連載が確約されている人気漫画ならばいいかもしれないが、その他の普通の漫画は打ち切りの恐怖や単行本売上の数字などの影響で、数年後も連載継続できているかどうかはっきりと言えるのは難しいだろう。そしてその悪い予感が的中し、打ち切りを食らってしまったら、それまでに巻いていた伏線は全てゴミになる、もしくは最後にいきなり怒涛の勢いで回収されたりする。そう、ソードマスターヤマトのように。

dic.pixiv.net

正直、この強引な複線回収は面白いわけではない。もはやヤケクソと言った方が近い。つまらないもしくはギャグにしかならない。

ほとんどの連載作家は、打ち切られる恐怖がある。ワンピースのようにたくさん伏線を張れるのは、そもそも選ばれし漫画家だけであることを知るべきである。そういった普通の作家は、むしろ伏線は長く寝かさずに、すぐに回収した方がいいだろう。

 

そこで、ワンピースの本当の魅力とは何なのだろうか?

今まで私は、ワンピースの魅力はキャラクターの多さであり、伏線が回収されていく世界観でのフラグ管理の見事さにあると説明してきた。しかし、まだ根本的な答えをだしていない。

それは、なぜワンピースは人気売れるのか。である。

キャラが多いから、伏線が凄いから、いやそれはあくまでサブ的な要素であり、ワンピースの一番の魅力ではない。だから私は、ワンピースと他のバトル漫画を分ける決定的違いやワンピースが特化している部分を考え出してみた。

そして出た結論がこれだ。

 

ワンピースは泣ける

これだ!私はようやくワンピースの真の魅力にたどり着いた。そう、ワンピースの世界構成やキャラクターの立ち振る舞いは、お涙頂戴の感動話で成り立っている、そしてその繰り返しなのだ。

ここが、他のバトル漫画との決定的な違いだ。確かに、他のバトル漫画でも泣けるシーンはある。だがワンピは、明らかに確信犯で、全ての島々で起きた戦いで泣けるシーンを作ろうとしている。そう、とにかく泣けるに特化したのがワンピースの構成なのだ。

ルフィが島にたどり着くと、とんでもないクズの権力者がいて、そこに迫害された人間がいる。彼らを救うのがルフィたちの役目だ。迫害された人間が自分の仲間だったりもする。と言うか初期はそれが多い。そして読者は迫害されている人に同情し、ルフィと同じ気持ちになり、敵を倒してスカッとするのだ。

そう、ワンピースとは基本弱いものを助ける勧善懲悪ものである。そしてバトルは二の次だったりもする。またこの泣けるストーリーを補完するために過去の回想が多い。ワンピースに回想が多いという意見があるが、それももちろん、読者を泣かせるために描かれているのである。いかに苦労した人生を送ったのか、そういった部分を際立たせるのに過去の回想ほど 効果のあるものはない。

さらにこの泣ける話を考えるというのは、キャラクターが増えすぎるという問題もまた解決できたりする。新キャラが出てきた場合、彼らの回想を見ることで、彼らもまた苦しんでいたり困っていることがわかる。だから出たばかりの新キャラにも愛着がモテる、少なくとも同情心は芽生える。こうして読者もちゃんと新キャラの事を覚えようとしてくれるのだ。そして無事ワンピースを読んで感動して泣けた人間は、続きが気になって買ってくれる。これで伏線を引き延ばしても問題ない。そう、こうして勝利の方程式が出来上がっているのだ。これがワンピースと言う作品の設計書だ。

 

そう、ワンピースはいろんな要素がかみ合ってできた、奇跡のような作品である。

結局私がいいたかったのは、こう言う事である。ワンピースにはキャラが多い、伏線も多い。これは最初に言った通り、普通の漫画ならあまりいい事とは言えない。だが、ワンピースの作者である尾田先生は、そこに「泣けるお話」と言う基本展開を作ることで、キャラが多くても伏線が多くても読者が付いてこれる作りにした。

だから新人漫画家は、ワンピースを作るのにはただキャラクターや設定やら伏線やら目立つ部分に目を向けるだけでなく、「泣けるストーリー」という純粋な物語の要素を学習する必要があるのではないと思う。それが、私がワンピースがここまで売れた漫画になった理由だと思うのである。

 

PS追伸

最近のワンピースが過去ほど人気がいまいち出ないのは、そのワンピース内の「泣けるストーリー」が少し読者とズレているからでは無いかと思う。昔のような純粋な悪と善人の話ではなく、仁義やらそういった任侠要素がでて、それはやはり一般の人にとってはなじみが無いので、まぁそういったところが上手くかみあわないんじゃないのかなあとか思ってたりしますね。

 

 

 

ドーモ。ダークニンジャ=サン。ニンジャスレイヤーのアイサツは漫画界の暗黙のルールである。

ドーモ。読者=サン。無職ニートです。

この挨拶をご存じだろうか?

ニンジャスレイヤーという海外発祥の小説がある。それは外国人から見た空想の日本を舞台とした、バトル系の小説である。平たく説明をすると、主人公はニンジャで、敵もニンジャである。そして正義のニンジャである主人公と悪のニンジャ同士が戦うというお話である。ニンジャごとに特殊能力があるようで、能力バトルものに分類される作品である。

そしてニンジャ同士の戦いを始める前には、こういう掟がある。それはアイサツと言うものである。

dic.nicovideo.jp

ニコニコ大百科より

例え相手がロボニンジャであっても変態フィーヒヒヒであっても強敵であっても、対面した際のオジギとアイサツは不可欠であり、これらが済む前に攻撃を仕掛けることはスゴイ・シツレイにあたる。しかし、アイサツ前のアンブッシュ(不意打ち攻撃)が一度だけ認められ、これで死亡するようなニンジャは未熟であり、イクサに参加する資格すらないということになる。

わかりやすく箇条書きにすると・・・・・・

・ニンジャ同士で戦う際、まずお辞儀をして互いに自己紹介をしなければならない

・相手がニンジャなら、どんな相手でもやらなくてはならない

・不意打ちは一回だけなら認められている。

ちなみにこれをやらないニンジャはスゴイシツレイに当たり、ムラハチという制裁を受けるらしい。

 

こうしてみると、まさに日本の文化を誤解した意味不明なルールに見える。しかし私は、このニンジャスレイヤーのアイサツの掟は、実はかなり理にかなっていると考えた。

 

お互いに自己紹介をするという意味

普通に考えれば、緊迫した戦いの中で、わざわざ挨拶をするというのは自殺行為であり、無駄な行動であるように見える。日本では鎌倉時代、名乗りを上げてから一騎打ちをするという作法があったが、それを誤解しているようにも思える。だが、よく考えてみて欲しい。ニンジャスレイヤーのこれは現実の戦いではなく、能力者のバトルものである。そういう視点で見てみると、この挨拶はむしろ正当なしぐさなのではないかと考えてしまう。

そもそもなぜバトルの前に名乗り合うのか?それはお互いの自己紹介のためだと思える。だが違う。このアイサツというのは、実は戦っているキャラクター同士ではなく、読者に向けて言っているのだ。

 

自己紹介は読者のため

そもそもバトルもの、特に能力系のバトル作品と言うのは、まず主人公側の能力、そして敵対している相手の能力、両方を読者が認識する必要がある。さらに、相手がどれくらいの実力を持っているのかをやはり読者が把握できなければならない。なぜなら、ただ無言や説明不足で戦いが始まった場合、そして倒したりした場合、相手が強かったのか弱かったのか見ている方はわからないからだ。強いのか弱いのかも分からない敵を倒したとしても、それが凄い事なのか大したことない相手だったのかわからない。特に不意打ちで出オチのように倒した場合、単なる間抜けにしか見えない。

だからニンジャはお互いに自己紹介を行うのだ。自己紹介を行うことで、敵がどういう地位にいる人物か、強さの格はどれくらいのものなのか、戦う前に読者が知ることが出来る。相手が強いと知っていた場合、その敵を打倒したとき、感動も大きくなる。

こう考えると、このアイサツで一番得をしているのは、主人公でも敵でもなく、読者であるとわかる。

 

ニンジャスレイヤー以外の漫画でも自己紹介は当たり前。

こういった自己紹介は、実は他の普通のバトル漫画でも一般的に行われている。特にキャラクターが多い漫画では自己紹介は必須事項であると言ってもいい。なぜならすべてを開設するとページが足りないしテンポも悪くなるからだ。

例えばワンピースは新キャラが出た場合、「懸賞金」「通り名」「所属」と「名前」が表示される。さらに能力が表示されることもある。ワンピースは登場人物が異様なほど多い漫画なので、こういった表現をするのは自然だろう。

別にワンピースでなくても、ほとんどのバトル漫画は戦う前にお互いの自己紹介を自然と行っているはずだ。鬼滅の刃も「柱」だったり、「十二鬼月」だったりと、戦う前にそれぞれの実力が肩書だけでわかるような仕組みになっている。気づいたら知らない奴に後ろからやられていた!みたいな複数の対戦ゲームの結果とは違い、バトル漫画とは互いに姿を見せてバトルをする。何故か、不意打ちだけで決まったりするのはつまらないからだ。正直、読者が萎える展開だ。卑怯なキャラもいたりするが、そういったキャラクターも正面からわかりやすく卑怯な真似をする。ガチでギリギリまで隠れてて不意を突いて勝つなんて本当に卑劣な真似はしない。ゲームでは正しい行為だが、バトル漫画ではやっちゃあいけない行為だ。本当に白けるからマジやめて欲しい。

 

アイサツ前のアンブッシュ(不意打ち)についても合理的

それでいて、ニンジャスレイヤーにはアンブッシュ(不意打ち攻撃)が一度だけ認められている。つまり一回は自己紹介の前に攻撃してもいいと言う事だ。これもまた、結構考えられていると考察できる。

主人公や敵が、自己紹介もせずに不意打ちで一瞬で倒していい相手と言うのがバトルものにも存在する。それは物語上大して影響のないモブだったり、もう絶対戦いについていけないことがわかっていて、役割が済んだ置いて行かれたキャラだったりする。そういった戦闘シーンを用意するまでもないショボい争いの場合、正直見ててもつまらないので、さっさと処理することは読者としても歓迎である。北斗の拳のモヒカンに一々名乗ってたらテンポが悪すぎる。影響しない雑魚なら正直秒殺しても何の文句はない。どうせウロチョロされてもどうせできることが無いんだし、とっととやられるか逃げ出していてもらいたい。

 

結局私が言いたかったこと

ここまで語って私が言いたかったのは、面白いバトル漫画と言うのはお互いに名乗り上げを行うと言う事である。また一見すれば、名乗り合っていない戦いもあるが、それは別のキャラが代わりに答えたり、前の戦いのときに知り合いになってたりと、お互いの情報をきちんと把握し合っており、読者もそれを理解していると言う事である。

名乗り上げと言うのは古臭い昔の武士の作法に見えて、フィクションのバトルものの中では、むしろ現役であり、これからも残っていく作法であろう。

 

 

やりたいことは能力が無いと見つからない。

正直暇である。無職のニートなんだから仕方ないが、やることが無い。とりあえずゲームをやってる。いやぁゲームと言うのは面白いものだ。自分が無職でも楽しめる。特に名作と言われているゲームをプレイすると、デザインを見て感心する。よくこんな仕掛けを思いついたなあとか、難易度も難しくても投げ出さないレベルに留めていたりと、絶妙なバランスを保っている。本当に作っている人はすごい。

でも自分がゲームを作ろうとは思わない。

ゲームをプレイしていると感動する。色んな仕掛けや謎解きを解いていき、ラスボスまでたどり着くのは非常に面白い。だが、自分で作ってみようとかは思わない。

なぜなら能力が足りないから、純粋にそれだけである。

正直自分にはプログラミングの知識は無い。学んでみても出来る気がしない。正直ゲームを作るのは無理だと思う。必要な能力が高すぎる。

自分には出来ないから作ろうと思わない、と言うか無理。そもそも何かをしようとするのには、どれだけその物が好きかどうかより、自分に能力があるかどうかで決まると思う。

自分は漫画を読むのも好き、だが絵が描けない。

私はゲーム以外にも漫画を読んだりするのも好きです。でも絵が下手です。正直描けないです。色々練習したこともあるんですが・・・・・・やはりここは生まれつきの才能があるんだと思います。いくら練習しても出来ないものは出来ないので。

絵が描ける人は尊敬します。自分が描こうとしてもゴミしかできないから。だから何かやりたいものが全然見つからないです。

そもそも趣味は能力が無いと無理

無職だろうが、就職している社会人であろうが、趣味を楽しみにしている人がいます。自分は働くのは障害とか能力的に無理っぽいので、せめて趣味で何かやりたいと思ったりもします。でもやりたいことが無いのです。いや正確に言えば、出来ることが無いんです。

 ゲームや漫画、アニメ等に憧れていても、自分に才能が無いのでどうしてもやってみることが出来ないです。そもそも少しでも成果が出ないなら、いくら努力しても無駄なんです。そして好きなこと=出来ることでもないです。

そう考えると、何かしたいとか思わなくなります。なんとなくゲームをしたり漫画を見たりするだけで、自分で何か創作をしようとかは出来ないです。いや昔は何か作りたかったんですが、今冷静になってみると、結局は才能が無いと無理だとわかりました。というか才能があれば色々出来ることは増えていくんだと思うんです。絵もプログラミングも出来ないのなら、小説でも書いてみるかという話になるのですが、文才もやっぱりないです。人生と言うのは結局できる人ができるようになっていると思います。

好きなモノやはまったものについて、色々と分析したりすることはできます。でも分析しても自分で何かできたりはしないです。ぶっちゃけると分析自体無駄な可能性あります。それで正直人生で暇を持て余しています。

 

自力で何かできる才能がある

そこで面白いものは何かを考える

作品が出来上がる

 

創作物とはこうやって出来上がるものだと思います。最初に能力が無ければ、そもそも完成することが出来ないし、手直しをしたり修正をすることもできません。

自分に何かできる才能があればよかったのになぁ~と思ってゴロゴロしている30過ぎのニートでした。

 

マリオ64コンプリートしました!

最近暇だったのでずっとマリオ3Dコレクションをやっていました。

それでついに、120個のスターを全部集めて、ヨッシーに無事会うことが出来ました!

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ここまで来るのに本当に大変だった。ある意味奇跡のようなもの

自分は正直ゲームが下手な方で、昔友達の家で遊んだりしても、たいてい一番下手でした。人の家でマリオ64を少し触ったことがあるけれど、正直まともに操作できる気がしなかったので、自分は64本体は持っていたけどマリオ64は買いませんでした。

というか、3Dのゲーム自体に苦手意識がありました。自分は方向音痴だから、3D系のゲームをするとすぐに迷ってしまうんです。

だけど、ゲームが進歩するにつれて、右下にマップ表示があったり、下手な人でもクリアできるようなゲームが増えていくにつれて、自分も少しずつですが3Dゲームに慣れていきました。

そして任天堂から、スーパーマリオ3Dコレクションが発売されました。

www.nintendo.co.jp

子供のころは絶対にクリアなんて不可能でしたが、大人になった今なら出来るかもしれない。またマリオオデッセイも一応クリアできたので、64、GCWiiの3Dマリオでもひょっとしたらできるかもと思い、購入しました。

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マリオ64は正直言って難しかったです。そもそも、通常クリア自体が結構きつかった。カメラの位置が動かせなかったり、地形が滑りやすかったりしてすぐ落ちたりと大変でした。

3Dゲームの先駆けなだけはあって、結構粗削りなステージやら鬼畜なギミッグやらたくさんありました。通常のステージも十分難しいのに、スターをゲットするのにステージ内で100枚コインを集めないといけないのは、正直酷いレベルの難易度でした。もう一度やれと言われたらできる気がしないです。ちびでかアイランドやレインボークルーズやスノーマンズランドは正直泣きたくなるくらいでした。逆にテレサのホラーハウスは 100枚が一番楽でした。

 あとはねマリオを操作する場所は全部きつかったです。全然思い通りに飛べないし。 

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 同じステージで何時間も足止めされたりして、ようやく全部のスターを集めることが出来ました。ヨッシーにも出会えたし、満足です。

ゲームが下手な自分でもクリアできたのは、多くの人がプレイ動画を上げていてくれたからで、正直動画が無ければ自分ではクリアできてなかったです。 

 そしていざクリアしてみると、マリオ64もなんだかんだで楽しかったと思えてきます。

自分は他に3D系のマリオは3Dランドとオデッセイの経験があるのですが、マリオ64をやっているとそれらで見た仕掛けなどが出てきて、ゲームの進化を実感できたりします。

最近のマリオのゲームも、このマリオ64から始まったのかと思えばなかなか感慨深いものがあります。64の時点ですでに3Dゲームとして完成されているから名作と言われるんでしょう。ただ、後のゲームに比べれば、とにかく落ちやすいのが難点ですね。ステージから少しでも外れたらミスになるので、その辺が一番難易度を上げている原因だと思います。マリオもシリーズを重ねるごとに、いやな位置での落下死が無くなっていってます。このマリオ64の経験があって、いろいろと遊びやすくなっていったんだと思います。

素晴らしいゲームをプレイ出来て楽しかったです。

次はサンシャインのスター120個を頑張ってみたいです。

 

聖人のような主人公が多い理由は、物語を進めやすいから

主人公と言うのはいい奴が多い

 

多くの物語で、基本的に主人公と言うのは正義の人間であり、お人よしで困った人を見るとじっとしてられなかったり、誰にでも優しい人格的にも優れたタイプであることが多い。

だからよく騙されたり、敵の罠にはまったり、人質を取られたりして苦悩することになる。

 そういうのを見て読者は、もっと冷血になって欲しいとか、敵に情けをかけすぎているとか、そのせいで逆転されたりとやきもきする。そしてそんな甘い主人公を見て、作者に文句を付けたりする。なんで主人公はこんなに甘いのか、馬鹿なのか?自分なら絶対許さないのになぜそんな奇麗事を言うのかとケチを付けたくなる。

だからちょっとしたヘイトが主人公に集まったりする。

しかし、主人公が善人であるというのは、実は作者が性善説の考え方の持ち主であるとか、悪を許さない正義感のある人間であるから、とかそういった思想があるわけではないと思う。そもそも根本的な理由は、善人であった方が話になりやすいからである。つまり物語の構造上の仕組みであり、主人公というのは話の中で役目を果たしているだけである。

 

善人であった方が展開を作りやすい

 

よく物語の主人公は、好感が持てる人間がいいと言われている。それは何故か。単純である。もし主人公が変人すぎたり特殊な思考の持ち主であったりすれば、読者が共感できず、話が頭に入ってこないという欠点があるからである。ギャク漫画なら主人公がおかしくても成立する場合はある。だがそれはあくまでギャグと言う人を笑わせるために特化した特殊な作品であるからであり、またその場合は常識人キャラの突っ込み役を置いて、副主人公のような扱いにする場合が多い。

ともかく、ギャグ等を除けば、基本的に主人公と言うのは善人なのである。

ではなぜ善人なのか?子供向けアニメ等では、小さな子供たちへの教育も兼ねているので、善人でなければならないという都合がある。それはそうだろう。子供が悪事を真似したら非常に困ることになる。こういった明確な理由がある。でも中高生や大人が見る作品でも、基本的に主人公は善人であることが多い。大人が見る作品などは、別に主人公が悪党であったとしても、あくまでフィクションであるとわかるはずなため、善人である必要性は無いはずである。しかしそれでも主人公は善人であることがほとんどだ。

これは作品を作る作者たちは、みんな性善説の持ち主とか、奇麗な心の持ち主だったりするのだろうか?いやそういう訳ではない。ただ物語を作るとき、善人の主人公を配置することが、作品として都合がいい。作りやすい。ただそれだけなのだ。

 

悪人は主人公に向いていない

まず逆に、なぜ悪人が主人公になる作品は少ないのか、そこを考えてみる。そもそも悪人と言うのは、悪人と言うから悪い奴だろう。じゃあ悪人がやることは何か?

他人を蹴落とす、他人を奴隷のようにこき使う、理不尽な暴力、盗む、殺人、着服、横領、嘘、裏切り、虐殺・・・・・・

とりあえずこれくらい出てきた。テンプレな魔王のように、世界を支配するというのもある。

では実際にこれを物語の主人公がやればどうなるのか?ふと想像してみる。

物語が始まった時、主人公は悪党なので、他人を信用しないだろう。ここで仲間を作るというのが難しくなる。仮に作れたとしても、利害が一致しているだけの打算的な関係であり、友情などは芽生えない。そんな利用し合っている仲間しかいないので、もし仲間が死んだときも感動を生むこともない。用済みのゴミが消えただけで終わりである。

次に成長について考えてみる。悪人がより上に行く場合、善人がやるような真っ当な努力は取らないだろう。組織で出世するにも、とにかく同僚への嫌がらせ、妨害活動をしてのし上がっていく方法を選ぶだろう。敵を倒す時も、純粋な自分の力で勝つのではなく、毒を混ぜたり、暗殺を狙ったり、人質を取ったり。まぁ卑怯な手を使いまくるはずである。そして卑劣すぎる手で勝ったところで、読者としてはやはり感動できないと思う。だって酷すぎるんだから仕方ない。なんだかんだで、ある一定の正々堂々さが無いと戦いは盛り上がらない。

他にも、悪事というのは地味で陰湿なのが多いという点がある。上司におべっかを使って取り入ったり、こっそり捏造をしたり、お金をちょろまかしたり。そういったところは見ていても地味過ぎてつまらない。ゴマすりをしている主人公なんて見ていて不快だろうし、楽しくもなんともない。善人の主人公のように、努力したり正々堂々と成果を出して認められたりする方が見ていて面白いのである。当然のことだが。

だからこういった悪人のプレイスタイルは、基本的に主人公に向かない。こういった悪人は敵にいたり、エロ同人世界だったりすれば魅力的になるだろう。

 

悪人系主人公も、結局は正義感で動いている。

いやそんなことは無い。悪人主人公でも面白い作品はたくさんあるはずだ。という意見はある。

最近では例えばオーバーロード幼女戦記などである。だがよく読んでいれば、彼らは悪よりむしろ正義感で動いている。

まずオーバーロードだが、中盤以降は確かに魔王のような振る舞いをしているが、実は初期の段階ではただ強いアンデッドの主人公が冒険しているだけである。

主人公のアインズがしたことと言えば、近隣の村を探索し、彼らが困っていれば希少性の高いアイテムを渡して助けたり、冒険者に交じって魔物を退治したり住民を守ったり。はっきり言えば道徳的に正しい行いをしている。他にも最初からいる部下たちがいる。好感度マックスで逆らう事なんて決してしないそんな部下を前にしても、主人公は無茶な命令を出したり、パワハラをしたりしない。彼らの命を消耗品のように粗末に扱ったりせず、きちんと大事に扱っている。これらの点で、悪党では無い、少なくとも悪人プレイはしていないと言える。中盤以降、悪人っぽくなっていったとしても、それは序盤の善人プレイで人気を獲得できたからであり、もし最初から外道であったら人気は出なかっただろう。

幼女戦記も同様である。確かに主人公のターニャは非道で、えげつない事ばかりしている。だがそもそも世界設定が戦時中である。戦争時と言うのは普段の価値観が変わった状態である。戦争では敵兵をたくさん殺すことは正義である。それが戦争というものである。戦争で勝つために色々な方法で敵国を蹂躙していくのは、正しい行為にあたる。そもそも一般の仮想戦記ものでも敵をたくさん撃破したり殺したりすれば褒められるものだ。ターニャも戦記ものの主人公としてなすべきことをしているだけである。

駄目なのは一般市民を攻撃したり、捕虜を虐殺したりすることだが、現実の戦争でもそれが守れている事は無い。リアルでも守れているとは言えないルールなため、実質形骸化している。つまり戦争だから多少は仕方ないというフォローが出てくる。その上で、その辺も作者は気を使っているのか、そういった戦争のルール違反をする場合は色々と正当な理由があった風にきちんと言い訳が出来る状況を作っている。やはり幼女戦記も正義の主人公なのである。

 

復讐系というジャンル

主人公が悪人っぽい作品の中に、復讐系というのがある。それは昔にひどい扱いを受けたから、お返しをするというスタイルである。このタイプの作品は昔から多い。古典でも巌窟王などが有名である。

復讐系の主人公は容赦がなく、さらにコソコソと悪事を重ね、それで昔の恨みを晴らしていく。そういった展開が多い。こうして昔見下してきたやつらを「ざまぁ」できたりする。だが復讐系主人公が悪人プレイをして許されるのは、過去に酷い扱いを受けたという理由があるからである。

もしもこれが、特に恨みも何もない相手に対して行われていたら。別に過去に何もないのに、ひたすら外道な方法で普通の人間を追い詰めていったら、普通にドン引きである。主人公に悪事が出来るのは、「過去に迫害された」という大義名分があるからで、それが無ければただのヤベー奴である。読者から見ても全然楽しくもないだろう。やはり悪人を主人公にするには、正当な理由を提示しなければならないのだ。

 

理想的な主人公の形とは

とりあえず、悪人は主人公に向いていないことはここまでで述べた。だから善人の主人公がいいと私は考える。とはいえ、善人なだけでは主人公としては弱い。そこで、ヒット作品から理想的な主人公を考えてみる。

とりあえず安定のドラゴンボール、ルフィ、そして今流行っている鬼滅の刃の主人公を見てみる。そして人気作の主人公にはある共通の特性があることがわかる。今からその要素を一つ一つ説明していく。

・非常に明るく前向きで、元気である

これは主人公として絶対必要なものであると言える。もし主人公がウジウジ悩みすぎたり、後ろ向き過ぎたら、その時点で話が前に進まない。たまに悩んで立ち止まる事はあったとしても、ちゃんと立ち直る。まぁこれは理由を書くほどでもないか。

・困った人間を見るとほおって置けない

この要素は、物語を進めるとき、非常に役に立つ。もし主人公が他人に興味のない人間であった場合、目の前で誰かが困っていてもスルーしてしまう。そうなってしまえば話が進まない。新しく出たキャラクターの話を聞いてあげないと、この先で行われるシナリオが説明不足で進行できない。急に設定をずらずらと書いても、ただ面倒なだけでウィキペディアを見ているのと一緒になる。おせっかいである方が話としては助かる。やはり主人公には、新しく着いた現地の住民と触れ合い、話を聞き、一緒に悩んでくれた方が物語として面白くなるのである。

・頭が悪いような部分がある

これは現実世界ではマイナス要素に当たる。だが主人公には持っていて欲しい要素である。もし主人公が常に頭が良いと、常に最適解を狙うようになってしまう。そうなってしまえば、敵が何かしらの罠やらを仕掛けたときに引っかかってくれない。きちんと敵の仕掛けに乗ってくれなければいい主人公とは言えない。これはゲームだとわかりやすい。ゲームは基本的に敵がステージに色々な仕掛けを作っている。プレイヤーはその仕掛けを解いて敵に迫っていく。もしステージを無視していきなりボス戦になるとゲームは味気ないものになってしまう。物語としても、基本敵が企んでいる事は成功してくれなければ盛り上がらない。最強のラスボスが復活するとき、無事復活前に阻止しましただと白けてしまう。ある程度敵に付き合ってあげなければ、物語として緩急が無くなる。だから少し抜けてたりした方がいいのである。

・デリカシーが無く、他人の問題をストレートに聞く

これもまたマイナス要素っぽい。だがこれもまた、物語を進めるのには必要な要素だったりする。例えばある味方が過去のトラウマ等で悩んでいたりする。そういったとき、普通なら気を使って触れないようにするのがベストだ。現実ではそうだ。だが物語においては、むしろ積極的に聞きまくった方がいい。なぜなら、主人公が聞いてくれなければ、読者もわからないからだ。これは主人公のデリカシーの無さというよりも、読者の気持ちを代弁しているという点が大きい。悩んでいる友人キャラの話を展開するにあたって、友人が勝手にペラペラしゃべりだすのは不自然でおかしい。だから主人公にデリカシーを捨てて聞かせることで、そのキャラクターの過去を説明することが出来るのである。

 

だから物語の主人公と言うものは善人なのだ

このように、物語の主人公が善人であったり、おせっかいだったりするのは。物語を進めるうえでの合理性を求めた結果であると言える。だから主人公が優しかったり、正しかったり、馬鹿だったり、甘かったりするのは、物語的にはその方が都合がいいからである。作者の思想が関係しているわけではない。

逆に、もし本気で悪人を主人公にしようとするのなら、物語を作るのは相当難易度が高くなるだろう。またいわゆる悪人寄りの主人公と言うのも、世界観の中では正義を実行しているということに気づくはずだ。やはり悪人主人公の場合、一番の根本的な問題、ただ悪事をやっててもつまらないという壁にぶち当たる。悪事をしつつ、見ていて面白い作品を作り上げるのは至難の業であり、茨の道である。もしこの「つまらない」「不快」といった問題を解決できるなら、ぜひ悪人主人公作品を作ってみて欲しい。

 

なろう系がRPGシステムを採用する理由

最近「小説家になろう」出身のアニメが増えている。いや最近というほどではない。数年前からずっとそうだった。むしろ今は減ってたりするかも?最近アニメを見ないからわかんないけど。

だがしかし、いわゆるなろう系と言われる作品が、どんどんアニメ化していたり、グッズが売れていたり、明らかに市民権を手に入れているのは確かだ。

とはいえ、基本的になろう系は作品としては低くみられることが多い。主人公が強すぎる俺TUEEEEとか、すぐに惚れてしまうヒロインもといチョロインとかハーレムとか、、世界観を破壊しかねないチート能力やら、努力シーンが無いやら、まぁ散々である。そしてその指摘は正しい。

でも待ってほしい。その「なろう系」と言われるご都合主義的な物語は、間違っているのか。私はそこを冷静になって考え直してみたい。

 

なろう主人公がモテたり農業が成功するのは、結局は強いからである。

なろう系の中でも、異世界へ行ってチートするタイプのスタンダードな系列の物語は、美少女ハーレムを作ったり、王様に認められたり色んなパターンがあるが、基本的にはバトルものを下地にしている。

ヒロインがたくさん出て美少女動物園状態になったり、そのよくわからない世界で認められて金持ちになったりするが、それらの要素はあくまで二次的な産物である。なろう主人公の目的はあくまで戦いである。戦い、そう結局はバトルである。ベースにあるのはバトルである。

いやいや、バトルは目的じゃない。異世界で農家をやったり、商売で成功したりと、いろんなジャンルがあるではないか? という意見がある。確かにそういった内政系の主人公は、バトルは目的ではないように見える。だが、なぜ主人公がそれほどその世界のライバルキャラクターたちより優位に立てているのか?そう、結局は強いからである。強いから誰も文句を言ってこないし、強いからモテるし、強いから敵対してくる相手を返り討ちに出来る。結局は強さに比例している。

そして彼らの世界観で、強さというのはどうやって決まるか?それはバトルである。一対一だったり、仲間と一緒のパーティーを組んだり、ルールは様々だがバトルに勝利することで主人公の強さをわからせるものが基本である。非戦闘系のなろう主人公も、戦闘向きでは無いと自称しながら、実際戦うシーンでは強い強い。全然弱くない普通に強い。内政向けのチートを戦いに応用したら大活躍したなんてよくある、ありすぎて困るほどのパターンだ。

このバトルで決まるという点で、私がなろう系はバトルものの派生だと考えている理由である。

 

バトルものとは、ドラクエ的世界観である。

よくナーロッパ(なろう+ヨーロッパの造語)と言われる世界観がある。それは魔王がいて、冒険者ギルドがあって、モンスターがいて、ステータスがあったりする。わかりやすく言えばドラクエ的なゲーム世界観である。なろう系はゲーム世界観だからオリジナリティが無い、つまらない、といった意見は多い。なぜなろうでドラクエ風な世界観が好かれるのか、それは「ゼロの使い魔」の影響があるからとか、作者の年齢的に若いころにRPGが流行っていたからだとか、それも確かに一理あると思う。だが私は、それよりもいわゆるバトルものと言われる漫画と、RPGの類似性が大きいので、テンプレとして上手く嵌ったのではないかと考えている。

ドラゴンボールや、ワンピースもゲーム的な世界観である。

バトル漫画としても有名な、この二つのジャンプ作品から、私はゲームの世界観がなぜそれほどなろうで流行したのか説明してみたいと思う。(鬼滅の刃は個別に分析したいから今回は扱わない)

まずドラゴンボールである。バトル漫画の王道であり、知らない人はいないという作品である。ドラゴンボールの展開がいかにドラクエ風なのか、これから解説していく。

ドラゴンボールのあらすじというのは、まず主人公の悟空がいる。その悟空が修業し、ライバルと戦う。するともっと強い敵が現れ、また修業し、強くなって戦う。

敵が出る→勝てないから修行する→強くなる→倒す→新たな敵が出る

これを繰り返すのがドラゴンボールの基本である。いや全てのバトル漫画はそうだと言えるかもしれない。しかし、ドラゴンボールには、強くなる修行パートの時に、ある共通のイベントがある。

新たな師匠キャラが登場する。

そう、ドラゴンボールではより強くなりたいときに、今までとは違った新しい師匠ポジションのキャラクターが登場するのである。悪く言えば強くなるには今までの師匠の所にいても無意味で、次の師を探さないといけないという所である。

亀仙人→カリン様→神様→界王様

といった風に、強くなるにはただ修業をすればいいわけではなく、適切な人物を見つけ出さねばならない。この、師匠が変わるというシステムはドラゴンボールの見事な所である。

そもそも、勝てない相手を倒すのに修行をすれば勝てる、というのは不自然である。なぜならばこれまでにもすでにきつい修業を乗り越えたはずだからだ。しかし、今の師匠とは別の上の師匠の所に行くことにより、今までの修行では未熟だったから修正したらもっと強くなった、という風にできる。つまりドラゴンボールの世界で強くなるというのは、世界に散らばっている師匠を見つけ出すという事である。

世界の中で誰かを見つけて強くなる、というシステムはRPGのお使いクエストに近い。

ゲームでは先へ進むために、また敵を倒すために、ある一定のアイテムが必要だったり、スキルを教わったりする必要がある。魔王は伝説の剣でしか倒せないというのは典型的でよくあるパターンである。さらに伝説の剣を手にするには賢者を探さないとダメとか、またお使いクエストが発生する。

ゲームでシナリオを進めるために必須なアイテムなどが、それがドラゴンボールでは師匠に相当する。ドラゴンボールには超神水や、最長老、老界王神など、修行無しでも強くなるものもある。一見強くなるのは修業の成果のように見えて、そういったお使いクエストをこなすことで強くなっている。こういった部分がゲーム的だと思う。

 

ワンピースは仲間集めがメイン

ドラゴンボールがお使いクエスト的であることは説明した。次はワンピースについて考えてみようと思う。

まずワンピースの世界観を考えてみよう。主人公ルフィは、自分の故郷である海から、グランドラインを越えて、さらにその先の新世界へ行き、ワンピース(ラフテル)を見つけるのが目的である。

こう書くと、ワンピースの世界観はとてもゲームチックであるとわかる。どんどん新しい大陸に行って冒険をするのは、RPGでは普通である。

さらにワンピースは、海を旅するのだから、船を手に入れないとならない。そして船を手にしたとしても操縦士が必要。長い冒険になるため食事をとる必要もある。船の修理や病気も怖い。そう考えればどんなに最低でも、操縦士、コック、医者、船大工を仲間に入れる必要がある。しかも目的のワンピースにたどり着くには、古代文字を解く必要があるようで、さらに考古学者も必須になる。

つまりワンピースの世界を「攻略」するためには、それぞれ専門の仲間を集める必要がある。この攻略に必要な仲間を探していくというストーリーは、とてもゲーム的であると言える。基本的にRPGは4~6人からなるパーティーが基本になる。強い仲間を見つけていくのもゲームの楽しみの一つであり、中にはいなければ先に進めないような、重要なキャラクターもいる。この先に進むにはある人物を仲間にしなければいけない。といったイベントは多い。ワンピースもこれとよく似ているのである。

 

バトル漫画とRPGゲームの相性の良さ

ドラゴンボールやワンピースのゲーム的な部分について説明した。このようにRPGのシステムと言うのは、バトル漫画の展開とよく似ており、一致する点も多い。

そして基本要素がバトル漫画で構成されるなろう小説は、ドラクエ的な設定にすれば世界観を作るのを省略できるだけではなく、物語の進行も非常にわかりやすく直感的に行くことが出来るのである。なろうマンガでRPGドラクエのような世界観になるのは、ある種の合理性が働いているのである。

むしろ逆に、ドラゴンボールやワンピース等がゲーム的やご都合的な世界観に見えないのは、そう見えないように上手くシナリオを作っているからである。ゲームっぽさをうまく誤魔化せるかどうかがなろう系とバトル漫画の違いなのかもしれない。